*


その願いは、出すぎた願いだっただろうか。
大佐と過ごした時間が、二人を少しでも近づけていると思っていたのは、ただの思い込みだったのだろうか。

打ちのめされた気持ちで、殴られた頬を掌でさする。もうそこに、痛みはない。腫れもすぐに収まった。おそらく、本気で殴ったわけではないのだろう。
けれど、あの氷の塊のような冷ややかな表情と声が、脳裏にこびりついて離れなかった。その無表情の奥で、自分をどれだけ憎んでいるのかと思うと、目の前が 暗くなった。
オレが、中佐に賢者の石のことを話さなければ。そうすれば中佐が殺されることはなかった。そして大佐がロス少尉を手にかけることもなかった。
全ての原因を作ってしまったのは、オレだ。賢者の石を探さなければ。国家錬金術師にならなければ。弟を巻き込んで母さんを生き返らせようとしなければ。
苦い後悔は、どこまでも果てがない。リノリウムの床を見つめていると、軍靴の足音が近付いてきた。

「-――まだ痛むか?エルリック…」
顔を上げると、濡れタオルを持ったアームストロング少佐が心配そうに立っていた。差し出されたタオルを受け取ると、頬に当てる。言うべき言葉は幾つも思い 浮かぶのに、口にするにはあまりに重過ぎて、声にならない。
大佐がロス少尉を焼死させた事件は、身内の不祥事と言うことで、内々に処理されるようだった。だが、少尉の脱走と大佐の行動が出来過ぎているのではという 声が上がり、検視と事情聴取が夜通し行われていた。
その場に居合わせた、オレと大佐、そして後から駆けつけたアルフォンスと上司である少佐は、それぞれ別の小部屋に連れて行かれた。憲兵の聴取が一通り済ん だオレと少佐は、薄暗い解剖室の前のソファーで、二人を待っていた。

「ロス少尉が…君を叩いたことがあったそうだな」
唐突な少佐の言葉に、物思いの淵から覚める。
「――え、ああ……第五研究所の…。うん、あの時はびっくりしたな」
「彼女は君を弟のように見ていたから……きっと、放っておけなかったんだろう」
部下の行動を、埋め合わせるような言葉に、オレは頷いた。
「……うん。もっと周りを頼れって、叱られたよ」
「彼女は、情に厚かったから、」
少佐は口ごもると、掌で顔を覆った。何かの間違いだ、と小さく呻いた。
その声に、麻痺していた感情が唐突にこみ上げてくる。

――オレのせいだ。

黙り込んだオレを見て、少佐は荷物を探った。取り出されたのは、軍支給のレーションだった。官品を主張するようなカーキの紙包みには、そっけなく「チョコ レート」と印字されていた。
「昔、少尉に薦められたのだ。チョコレートを食べると、ショックが和らぐんだと…」
大きな手の中で、ぱきりとチョコが割れる音がした。手渡された欠片を口に入れると、甘い味が広がった。少佐も何も言わずに、チョコレートを口に運んだ。

『昔のチョコレートは、薬だったんだ』

あの夜の大佐の声が、聞こえた気がした。

『子供にはまだ早かったな』

ひりひりとする喉を、甘いチョコレートが落ちていく。

『自分はまだ子供なんだってことを認識しなさい!』

ロス少尉に叩かれた日を思いだした。

『もっと大人を信用してくれてもいいじゃない』

目が熱い、と思った時には、もう涙がこぼれていた。

「ど、どうした?エルリック」
少佐が慌てたように背中をさすった。泣き止まねばと思うのに、嗚咽はとめどなくこみ上げる。何かを言おうとした唇は震えて、言葉にならない。
数時間前まで生きていたひとの、変わり果てた姿。すぐ側に佇む、誰よりも信じられる筈だったひと。目を閉じても、それは消えない。現実は変わらないのに。

ロイが人を殺めたことを、どうしても認めることができない。

「――兄さん、どうしたの!」

暗い廊下の先に見えた弟の姿に、オレは顔を上げた。
駆け寄ってきた弟の後ろに、大佐の姿が見えた。
男はちらりとオレを一瞥し、目をそらした。

悲しみと怒りが一気に押し寄せ、背筋をざわつかせた。



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