「……頼むから、もう、こんな無茶はしないと誓ってくれ」
「オレがどうしようと、大佐には関係ないだろ!?」
「心配なんだ」
「はっ―――あんたの出世に響くからかよ?」
「…きだから」
「―――は?」
「君のことが好きだから、心配なんだ」
「なに、それ…?変な冗談は…」
「信じられないだろうな。私だって、信じたくないさ。君みたいな年端も行かぬ子供相手に、恋愛感情を抱くなんて」
「…嘘、だろ?」
「嘘をつく理由が無いだろうが。別に、だから君をどうにかしたいわけじゃない。立場を利用して卑怯な真似などしないから、安心しろ」
「大佐―――あんた、頭おかしいんじゃないの?オレはあんたと同じ男なんだぜ?それに、あんたは上を目指してるんだろ。そんな人間が、こんなガキ相手に恋愛?オレが、それに応えるとでも?」
「君の言うとおりだよ。今言ったことは、忘れろ。君が私を嫌いなのは重々承知だし、それで一向に構わない。私も、後見人と言う立場から、外れるようなことはしない。ただ…」
「ただ?」
「身を滅ぼすようなことはしないでくれ」
「―――身を滅ぼすのは、オレじゃなくて、大佐の方だろ」
「そう…かもな」
3
扉を開くと、夜風が吹き抜けた。私はぼんやりとした追憶の淵から、我に返った。
「―――鋼の?」
明かりもついていない暗い部屋を一望して、玄関で立ち尽くした。
腕時計を確かめると、21時をとっくに回っている。2時間で切り上げるからと言って別れたのに、もう1時間近く過ぎている。待ちくたびれて帰ってしまったのだとしても不思議ではなかった。
気が短いからなぁ。気の抜けた炭酸のような呟きが漏れた。きっと本に夢中になっているだろうと、電話をしなかったのが失敗だった。
どこかで、期待していたのかもしれない。彼が自分に会いたくて、待っていてくれるのではないかと。ただのうぬぼれだったわけだが。
今から大通りに出たら、その辺を歩いていないだろうか。それとも、軍の宿泊所に電話でもしてみようか。振り返ってドアノブに手をかけたところで、冷静さを欠いた自
分に気がついて、苦笑いをした。
「まったく……いい歳をして」
初恋でもあるまいに、と軍服の肩をすくめる。30に手が届こうかといういい大人が、一回りも年下の14の子供に振り回されて。本当に、どうかしている。それをどこか、甘んじて受け入れている自分も。
ドアにもたれて、ため息をつく。強引だったかな、と別れ際の少年の困惑した様子を思い出す。いつもそっけない彼が、今日はどことなく違うような気がしたけれども、勘違いだったのか。
しんとした部屋に、風が鳴る。
―――風?
窓を開け放したまま帰ってしまったのだろうか。彼に限って、まさか。いぶかしく思いながら、奥の居室に足を踏み入れた。
開け放たれた窓から、青白い月明かりが差し込んでいる。夜風を受けて、カーテンが大きく膨らんだ。
その影に、見覚えのある深紅のコートが透けて見えた。たゆたう薄布をそっと手繰り寄せる。座りこんだ少年は、身じろぎもしない。
「……エド?」
呟くような声が彼に届いたかどうか。床を軋ませないように近づいて、彼の足元にしゃがみこむ。
エドワードのうつむいた頬に手を伸ばすと、顔を覆っていた金色の髪をそっとはらう。案の定、目を瞑って静かな寝息を立てていた。
普段のしかめっ面が嘘のような、あどけない寝顔。我知らず、微笑みを口の端に浮かべていた。
「風邪をひくぞ…」
名前を呼びながら、薄い肩をそっと揺する。エドワードは目を閉じたまま、むにゃむにゃと口を動かした。そういえばアルフォンスが、兄は眠るとなかなか起きないと嘆いていたっけ。
さっき報告書を提出しに来た時も、どこか寝ぼけ顔だった。旅先からずっと汽車に揺られて、疲れているんだろう。そう考えると起こすのも忍びないような気がしてくる。せめて、ベッドに寝かせよう。
エドワードを起こさぬように、静かに彼を抱き上げた。重そうな機械鎧をつけている筈なのに、かなり軽い。長い髪が頬をなでる。それは、自分の胸へ、くすぐったいような幸福感を与えてくれた。
ベッドに横たわらせると、軍服の上着を彼の上に掛けた。冷たい夜風が吹き込む窓を静かに閉ざす。規則正しい寝息が、部屋に満ちた。
隣に腰を下ろすと、眠る子供を見るともなしに見た。灯りもつけていないのに、月明かりで室内はほの明るかった。
白いシーツに打ち広がった赤いコート。人形のような整った貌。淡い輝きを放つ金色の髪。
ずっと見つめていたいと思った。彼が目を覚ますまで。
額にかかっていた前髪をどける。大人びて見える子供だったけれど、こうして眠る姿は年相応に幼かった。そっと頭を撫でていると、胸の奥にあたたかなものが湧き上がる。
おかしなものだな、と思う。人並みの仕合わせなんて掴めるわけが無いと遠ざけていた自分が。こんなに確かに、それを感じているなんて。思いも寄らなかったことだ。彼と出会うまでは。
柔らかな髪をそっと梳く。出会った時にはまだ短かったこの髪も、随分と伸びた。
他人に、あんなに我を忘れて怒鳴ったのは初めてだったな、と胸の中で呟いた。
あの、死んだような目。胸倉を掴みあげて、その瞳を見つめた時、どこかで同じものを見たと思った。
自責の念に追い詰められた、人殺しの目。自分と同じだ。そう気がついた時、深い井戸の奥を覗きこんだように、その闇に引きずり込まれるような感じがした。
国家錬金術師となり、失われた弟の体と自身の手足を取り戻す。通り過ぎて忘れていくことは簡単だったのに。関わらずにはいられなかった。
このまま彼を出口のない闇の中に置き去りにしてはいけないという、思いに駆られた。それが、彼を一層辛い道に立たせることでも。それでも彼は、きっと来る。
その予感は思ったよりも早くに、的中した。翌年彼は、再び私の前に姿を現した。
失った手足をオートメイルに変えて。短かった髪を長く伸ばして。一年前の病んだ姿が嘘のように、しぶとい笑みを浮かべて私の前に立った。その真っすぐさが、眩しかった。自分が置き忘れてきたものを、彼は持っていると思った。
―――14、今年の冬が来たら、15か……
出会ってから、3年余り。その3年の歳月を現すように伸びた長い髪を、ゆっくりとくしけずる。
エドワードが何を思って髪を伸ばしているのか、その本意は分からない。聞いても、はぐらかされてしまうのが常だった。
願掛けか、それとも自戒か。どちらにせよ、望みをかなえるまでは、教えてはくれないだろう。
青白い月の光に照らされた彼は、別人のように儚げだった。息をしていなければ、まるで死んでいるかのようだ。
あまりにも穏やかな寝顔に、罪悪感が湧く。昔、誰かに言われた言葉が脳裏に響いた。
―――「マスタング大佐、君は聞きしに勝る冷酷な男だな。美談で同情を引き、あんな子供を国家錬金術師に仕立て上げるなんて。むごいと思わんのかね?」―――
そんなことは、他人に言われずとも自分が一番良く解っていた。子供に背負わせるには、重すぎると。
けれども、私は彼を、可哀相な子供のままではいさせたくなかった。思い上がりを承知で、彼に生き地獄から抜け出す希望を与えられるのは、自分だけだと思っていた。
誰にも、私にも、彼を救えない。自分を救えるのは、自分自身だけだ。彼自身の手で、弟の体を取り戻さなければ償いにならない。その手段がどんなに彼を苦しめ
ても、生きながら死んでいくよりは、ましだと思った。
―――やっぱり、彼に自分を重ねているんだな
偉そうなことを言えた義理ではない。自分だって、同じなのだ。泥の川で溺れないように、必死でもがいて生き延びているだけだ。
少年の頭からそっと手を離した。子供らしい、安らかな寝顔を見ていられずに、ベッドに目を落とした。
ぐしゃぐしゃに寝乱れたシーツに、そっと手のひらを置く。
士官学校の寮に居たころは、皺ひとつなくベッドメイクしていたのにな、とふと思った。
あの頃だったら、やかまし屋の教官にベッドをひっくり返されて、顔が2倍になるまで殴られるに違いない。
いつの間に止めてしまったんだろうか。数年間もの間、毎日毎日繰り返して、叩きこまれたというのに。
まるで、あの頃の自分に反抗しているみたいだ。青臭い理想論を語り、輝かしい未来を信じて、知りもしない戦場での武勲を夢見ていた頃を。
ほんの数年前のことなのに、百年も前のことを思い出すようだった。あの頃の自分を、決して馬鹿だったとは思わない。ただ、若くてものを知らなかったのだ。人生の辛苦というものを。
がらんどうの部屋を見渡す。佐官の地位と共に得た、分不相応なほど立派な部屋。それを見て殺風景だと言ったのは、エドワードだった。
人が住んでる感じがしないな。初めて部屋に入れた時、彼は部屋を見回してそう言った。写真でも飾ればいいのに。何気なく呟いた彼の言葉に、私はうろたえた。
そのうちにね、と曖昧に笑って言葉を濁したけれども。そんな日は来るんだろうか。
軍服の胸を誇らしげにそらしたあの頃の自分。今はもう居ない、かつての仲間の顔。見たくもない写真なのに、捨てることもできない。
エドワードがそれを知りたがっていることを分かっていても、話せる筈が無かった。写真を仕舞いこんだ小箱は、引き出しの奥深くに眠ったままだ。
握りつぶしたくなるような過去。けれども、それを受け止めて、許せる日が来たなら。いつかは、彼に自分の口から語れる日が来るかもしれない。それまで、私と彼との関係が続いていればだが。
遠くで時計の針の音がした。一秒一秒、もどかしくなるような音を立てて、時は過ぎ去っていく。誰の上にも平等に、時間は流れる。私にも、彼にも、同じように流れていく。
行きついた先が、このがらんどうの部屋の、皺くちゃのシーツでも。自虐のように伸ばされた髪の毛と、傷だらけのオートメイルだけだったとしても。むなしいとは思わない。
彼と居ると、優しい気持ちになった。それが憐憫の情なのか、愛情なのか、時々自分でも良く判らなくなる。
「君に、何を求めているんだろうな…私は」
エドワードの白い頬に、手を伸ばした。
出会った時は、彼を救わなければと思っていたのに。叶う筈のない恋心を勝手に抱いて、それを抑え切れずに、彼にぶつけて。彼の無知に付け込むような形で、彼を手に入れてしまった。
だから彼に、自分の気持ちに応えて欲しいなどとは望まない。いつかきっと、彼は本当の恋に目覚めて、自分の元を去っていくだろう。そのつかの間の間だけ、羽を休めるように、こうして傍に居てくれたら。
―――それ以上、何も望まない。望んではいけない。
穏やかな笑みが浮かぶまぶたへ口付けを落とすと、その小さな体を抱き締めた。
「う……ん」
エドワードの唇から、小さいうめきが漏れる。私は慌てて体を離した。薄く開かれた瞳が虚空をさまよう。その琥珀色の瞳に微笑みかける。
「たいさ…?」
「すまないね、待たせてしまって」
目が合うと、怪訝そうにこちらを見つめる。何で大佐が居るんだ?といいたげな寝ぼけ顔を浮かべたのち、飛び起きた。
「―――うわ…っ、ごめん!眠っちまった!」
あたふたと口の端を拭ったり乱れた髪を直す様子が可笑しくて、笑ってしまう。
「いや、悪かった。起こすつもりは無かったんだが」
「オレも寝るつもりは無かったんだけど…っていうか、何でオレ、ベッドで寝てんの…?」
「君が犬か猫みたいに床に転がってたからね。冷えるかなと思ってこっちにね」
「誰が犬猫並みにちいさ……って、アンタ、いつからそこに居たんだよ」
「30分位前からかな?君が熟睡しているものだから、起こすのも悪いかなと」
「起こせよ!」
「君があんまり可愛らしい寝顔をしてるもんだから、ついね。それに、寝る子は育つっ
て言うし、ね?」
「ね?、じゃねぇよっ!口説くんだか馬鹿にするんだかはっきりしやがれ」
「馬鹿にしてたら?」
殴る素振りをするエドの拳を、笑いながら受け止めた。乾いた掌に小さな拳が小気味のいい音を立てた。
彼と居ると、どうしてこんなに心の底から笑えるんだろうか。花が暖かさに綻ぶように、泉の水が湧くように、自然に。
掴んだ拳を引き寄せると、肩にそっと手を回した。腕の中にすっぽりと納まる、小さな体だ。肩にそっと顔を埋めると、日なたの匂いがした。
「お帰り、エド」
「あ……。た、ただいま」
「待たせて悪かったね。でも来てくれてありがとう。君に、会いたくてたまらなかったから」
「……オレ、も」
うつむいたままのエドワードが、私の服をきゅっと掴んだ。私はたまらない気持ちになった。抱きしめる腕に力がこもる。
「今度の旅では、どこも怪我しなかったみたいだね」
「そんなドジ踏まねぇよ……と言いたい所だけど、前科があるからな」
エドワードは一度、大怪我をしたことがあった。そのことを思い出したのか、急にしおらしくなる。
「定期連絡をくれるようになっただけでも大進歩だ―――まあ、出来ればもう少し、東部に顔を見せてほしいけどね」
「報告書もたまらないし、って?」
「そう。中尉
も言っていたぞ。『エド君、大佐に似てきましたね』って」
「げっ…ショック……」
「そうあからさまに嫌
そうな顔をするなよ」
だって、とぶつくさ文句を言うその頭を、くしゃりと撫でた。
「明日、ここを発つんだろ?」
「うん、昼の便で」
「そうか……君は相変わらず慌しいなぁ」
「…ごめん」
「いや、弟君を待たせてるんだし、引き止めてはいけないな。―――そう言えば君は、今夜の宿はどうするんだい?」
「実は、まだ決めてなくて」
「……君が、もし良かったら」
口に出そうとして、言いよどんだ。エドワードが怪訝な面持ちで私を見上げた。意識してしまうと、次の言葉を言うのに、少し勇気が要った。
「今夜泊まっていかないか?」
「えっ―――」
「こんな時間に泊まるところを探し始めたら、ろくに休まらないよ。夜遅くまで待たせてしまったのは私のせいだし、罪滅ぼしさせてくれないか」
黙りこくってしまった少年の、赤く染まった耳たぶに気がつく。もう少し話をしていたいと思っただけで、下心は無かったつもりだった。だが、ぎくしゃくしだしたエドワードを見ていると、変にどぎまぎしてしまう。
「ごめん、ちょっと強引だったかな。君が嫌なら、」
「嫌じゃない」
さえぎるように彼はぽつりと呟いた。伏し目がちにしていた金色の瞳が、真っすぐ私を見つめた。思い詰めたようなその色に、心がざわめくのを感じた。
「……泊めてくれる?」
20081123
改訂 20090714