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扉を閉じると、世界が遠のいたような気がした。
ほの青い陰影に沈む部屋。闇に目を凝らして室内灯をつける。壁際につけられた明かりが、がらんとした部屋を照らし出した。
―――相変わらず、殺風景な部屋だな
大佐の部屋に来たのはこれが初めてではなかったけれども、大佐が居ない部屋は、前に訪れたときよりもずっと広く感じた。
締め切っていたせいだろうか。熱気がこもり、空気が澱んでいる。近くの窓を開け放つと、ひんやりとした夜風が流れ込んできた。
窓の外の往来の音がとても遠くに感じる。なんだかこの部屋だけ、世界から取り残されてしまったみたいに静かだった。
窓枠に腰掛けて、部屋を見渡す。大佐が居ない部屋に上がりこんだのは初めてだった。いつもは大佐が居たからじっくり眺めたこともなかった。大きく採られた
何面もの窓や、ゆったりとした間取りが贅沢な印象を与える部屋だ。
男の一人暮らしには広すぎるような気がするけれど、大佐の地位から考えたら、これでも清貧の部類なのかもしれない。家具だってずいぶんと少ない。
白いシーツのかかった寝台。なめし皮のアンティーク調のソファ。大きな書き物机。作り付けの書棚。
広い部屋にぽつりぽつりと置かれている様は、質素を通り越して生活感が希薄だった。
本棚からあふれ出して部屋のそこかしこに積まれた研究書や、机に置かれた書き散らかされたメモ書きだけが辛うじて、ここに人が住んでいることを証明してい
た。それらがなかったら、まるきりホテルか病室みたいに見えるだろう。
大佐からしたら、ここは仮住まいのつもりなのかもしれないが。忙しいときは当方司令部に詰めているようだし。ここには寝に帰ってるだけなんだろうけども。
絵でも、写真でも、飾ればいいのにと思った。まったく知らない人の部屋に迷い込んだようで、居心地が悪い。
―――そう、似てるんだ。大佐の部屋、あの部屋に
目を閉じると浮かんでくる部屋。それは、家族を置いて出て行った、あの男の…父親の部屋だった。
二年前に俺が燃やした、リゼンブールのあの家。記憶の中の家はどこもかしこも、懐かしさで満ち溢れている。その一部屋をのぞいては。
入ってはだめよ。ここはお父さんの部屋なんだから。
たしなめる母の声が蘇る。いつ父が戻ってきてもいいようにと、母は毎日部屋を掃除していた。それを裏切るように部屋の空気は澱み、埃は積もり続けた。まる
で部屋の主の不在を主張するように。
父の部屋でぼんやりと物思いにふけっていた、母の横顔を思い出す。やがて、オレやアルが父の書斎に入っても、母は怒らなくなった。
あの、がらくたばかりが置き去りにされた、よそよそしい部屋。
あんな部屋に似ているなんて。
「大佐、早く帰ってこねぇかな」
ぽつりと呟いた声が、広い部屋に寂しく響いた。
それをかき消すように、ひときわ強い風が吹き込んだ。薄布のカーテンがはためく。
パラパラ…と紙がめくれる音がした。部屋を見渡すと、ベッドの上に放り出された本のページが、風でめくれていくのが見えた。本を閉じようとして、何気なく
ベッドに近づいて手を伸ばしたとき、気がつく。
今までここで眠っていたみたいに、白いシーツは皺くちゃだった。生活感が希薄なこの部屋で、寝乱れたシーツがひどく生々しい。
ここで彼は寝てるんだ。大佐ののプライベートな部分を、覗き見てしまったような気がして、気まずくなった。
パタン、と本を閉じる。しんとした部屋で、心臓の音がうるさく響く。どうして、こんなにうろたえてるんだろう。大佐がここで寝てるなんて、当たり前のこと
じゃないか。
胸をドキドキさせている自分が、ガキっぽくて嫌になる。さっきから、ずっとこの調子だ。なんで大佐のことが絡むと、こんなに冷静で居られなくなるのか。
くそっ、と呟いてベッドに腰を下ろし、倒れこんだ。スプリングのばねがきしむ音が鼓動を一層早めた。
弟が居たら、行儀が悪いとたしなめられただろう。兄さん、仮にも大佐は上司なんだからさ。と、あわてる弟の姿が目に浮かぶ。
もうリゼンブールには着いただろうか。東方司令部で時間がかかりそうだからと、先に行かせてしまった。報告書を書くのにそんなに時間かかるの?と怪訝そう
にしていた姿に、罪悪感がちくりと胸を刺す。
あいつがもし、オレと大佐の関係を知ったら、どんな反応をするだろう。絶句するだろうか。心配するだろうか。あいつは人の気持ちに敏いから、もしかしたら
感づかれているかもしれないけれど。
たった一人の家族に嘘をついて。司令部の面々を騙して。誰にも知られないように振舞い続ける。ひどい裏切りをしてる。信じられないのは、それでもこの関係
を手放したくないと思っている自分の必死さだった。
疲れていたせいだろうか、ベッドに体が沈んでいくようだった。昼間に少しうたた寝をしたけれど、体はぐったりと重かった。目を閉じて、寝返りを打つ。
シーツに顔をうずめると、かすかに男物の整髪料の匂いがした。
半年前に、大佐に抱きすくめられてキスされた時も、これと同じ香りがしていた。ほんの一瞬、鼻先を掠めただけなのに。焼きついてしまったようにはっきりと
覚えていた。
肩をつかまれた時の感覚、きつくまわされた腕や、押し付けられた唇の柔らかさが、糸をたぐるように次々と蘇ってくる。
キスされるよりも前に告白を受けていて、大佐の気持ちは知っていたのに。好きだといわれた時よりも、ずっとずっと衝撃的だった。今思い出すだけでも、息が
苦しくなるくらいに。
唇にそっと触れてみる。あの一瞬を境に、自分と大佐の関係が変容してしまったと思う。少なくとも自分の中ではそうだ。それまでだって、彼が自分を好きなん
だということは知っていた。でも頭では理解していても、実感なんてなかった。キスされた時に初めて、彼がどういう欲望を自分に向けているのか、解った。
それが、彼への思慕も変えてしまった。自分の中に「尊敬」でくくってしまえない気持ちがあることを見つけて、怖くなった事を覚えている。その戸惑いは、付
き合っている今もずっと感じているのだが。
「付き合う……か。これで付き合ってるって言えるのかな……」
今までの二人の関係が変わってしまうことを怖がる自分に、彼は『変わらないよ』と言って微笑んだ。その言葉の通り、大佐と付き合い始めても、二人の関係は
少しも変わらなかった。
一緒に食事を取ったり、待ち合わせてお茶を飲んだり。前にこの部屋に来た時も、ただ他愛無い話しをしたぐらいで。二人きりになることは確かに増えたけれ
ど、その時に話すことだって、付き合う前と大差ない。
抱きしめられたり、キスされたりしたのも、半年前のあの時だけで。それ以上のことも勿論なかった。付き合うことに必要以上に身構えていたせいか、拍子抜け
した。
気を使われているんだろうなと思う。自分が子供過ぎて、扱いかねているのかもしれなかった。
今までと変わらなくてほっとしている反面、不安もあった。それで、大佐は満足なのだろうかと。そもそも、彼は自分に何を求めているのだろうか。
「オレと大佐じゃ、全然、釣り合わないのに」
どうして、オレなんだろう。何の役にも立たない、ただの子供に。自問自答を何度繰り返しても、答えは出ない。
―――「落とすのに躍起になってるだけだろ」―――
あの昼間の噂が本当だったら、納得が行くのに。自分をからかって、遊んでいるだけだと。本気で好きだなんて、ありえないよ。自嘲的なため息をついた。
取り沙汰されていたような、大佐の過去や風評は知らなかったわけじゃない。ただ、考えないようにしていただけだ。今の大佐が、全てだと思ったから。
大佐の顔が、声が、頭をよぎる。自分を向き合った時の彼。「大佐」でも、「焔の錬金術師」でもない、ロイという一人の男が自分に向ける、あの表情。
それが、自分にとっての全てだった。
目を開けると、眩しい光が突き刺さるようだった。ランプに照らされた、高い天井を見上げる。見知らぬそれは、旅先で目覚めるたびに感じるものと同じ感情を
抱かせた。
よそよそしく感じて当たり前だ。この部屋は、他人の部屋なんだから。
それまで関わりのない人生を歩いてきた人間が、どうしてすぐに、わかりあえたりするだろう?好きになってすぐに、二人の過去が消えてしまうわけじゃない。
恋しい気持ちで、二人がひとつになってしまったりなんてしない。
所詮、別々の人間なのだから。大佐はそういう、孤独な部分を、見せないようにしてくれていたんだ。優しい言葉で、与えてくれる安らぎで。気付かせなかっ
た。
それでも、思い知ってしまった。自分と大佐に横たわる、未知の暗い深い川があることを。生きてきた年数も経験の差も、違いすぎて。ずっと大佐に届かないよ
うな気がしてくる。
ベッドの上に起き上がると、纏わりつく髪をかきあげた。ふと、窓ガラスに映った自分に気づく。
ひどい顔だ。泣きそうな、思い詰めた顔。まるで、自分じゃないみたいだ。
煌々と部屋を照らしていた電気を消す。窓に映るのは、ただの暗闇になる。なぜか、ほっとしていた。
月明かりが窓から差し込んでいる。開け放った窓から、身を乗り出して通りを見た。街灯が点々燈っているばかりで、まだ宵の口だというのに、もう人通りは無
かった。
髪を解くと、風になびく音が耳元でした。大佐が帰ってくるまで、ずっとこうしていたい。テーブルに置かれたあの本も、今読んでもきっと頭に入って来ないだ
ろうから。
結い紐をコートのポケットに突っ込む。カチリと、金属がぶつかる音がした。ポケットの中を探ると、この部屋の鍵に触れた。月の光にかざすと、ちっぽけな鍵
が鈍く光った。
この部屋で待っていてと言われて、とても嬉しかった。彼の特別な存在になれたみたいで。
でも、あの噂が言うように、これが彼の日常だというのなら、特別でも何でもない。
この鍵を渡されたのも、自分一人だけでは無いだろうなと思った。
嫉妬でさえない。嫉妬するほど、深く彼に関わってなどいなかったんだから。オレは、大佐のことを何も知らない。いままでどんな人と付き合ってきたのかす
ら。それがひどく悲しかった。
鍵を見つめる。開け放った窓から、放り投げてしまいたい。そんなこと、できやしないのに。
壁にもたれると、ずるずるとその場に座りこんだ。鍵を強く握った。少し離れたところにあるベッドを見つめる。もし、大佐と「寝た」ら、少しはこの距離は縮
まるのかなと思った。
白いシーツがかかった寝台に、横たわる大佐を思い浮かべる。その腕の中に包まれている誰かを夢想する。そこに居る自分を想像しようとして、空しさがこみ上
げてきて、頭を振った。
顔を手で覆うと、深いため息をついた。彼のことを何とも思っていなかった頃が、ひどく遠くに思えた。
3年前には想像もつかなかった。大佐がリゼンブールに訪れたあの時には。大佐に出会って、自分の何もかもが変わった。
彼が自分を、ここに導いたのだ。
このがらんどうの部屋に。
―――そうだ……あの夢。
忘れていた言葉を、思い出した。
国家錬金術師になったオレに、彼は言った。
―――「ずっと待っているから」―――
そう言って、どこか遠くを見るような目で、彼は微笑んでいた。
顔を覆っていた手をどける。
壁にもたれたまま、歪んでいく部屋を見ていた。
がらんとした部屋。記憶の中の父の書斎がそれと重なる。突然消えた父の背中と、待ち続けた母の横顔が、浮かんでは消えた。
漠然と、変わらなくてはいけないと思った。
背伸びをしてでも、彼の想いに応えようと。
このまま、彼を何も知らないまま通り過ぎていくなんて絶対に嫌だ。
―――「別に何も、変わらない。だから、怖がらないで…」―――
あんたはずっと守っていてくれた。
でも、もういいんだ。
もう、後戻りなんかしない。
「変わらないなんて、いやだよ……大佐」
20080819
改訂 20090613