「……った
く!どいつもこいつも、人をチビだの豆だの好き勝手言いやがって」
「まあまあ…君はまだ、12なんだから」
「アンタもオレを子供扱いするのかよ。確かにガキだけどさ」
「そうむくれるなよ。たしかに今の君は子供だよ。でもいつまでも子供ってわけじゃないだろう?どう成長するかだよ。それは君にかかってるんじゃないか?」
「保護者ヅラすんなよ」
「君こそ茶化すなよ」
「ま、アンタの言う通りまだ12だからな。今に見てろ。急成長してみんな追い抜かしてやる」
「それはそれは…」
「もちろん、アンタもな!」
「楽しみにしてるよ…鋼の。まずは私に追いついてくれ」
「フン、覚悟してろ」
「―――」
1
「…なんだ、夢か」
うたた寝から覚めたぼんやりとした頭で辺りを見渡すと、今まで見ていた光景はすぐに色あせていった。
使い古された木机。色あせた背表紙が整然と並ぶ書棚。小さな窓から差し込む柔らかな光が、埃っぽい資料室の空気をきらきらと乱反射させていた。
リゼンブールに向かう途中で立ち寄った東方司令部。提出する報告書を作るためにここに陣取ったのだが。
「あーあ…これは書き直さねーと」
眠りこむまで向かっていた報告書は、インクのすれた跡と涎とでぐちゃぐちゃだ。せっかく殆ど書きあがっていたのにな、とため息を漏らしながら新しい紙を出
す。
「早く提出しないとマズイよなぁ」
机に突っ伏して寝ていたせいで体中が痛かった。一体どれくらい眠っていたのやら。
昼過ぎにここに着いて、中尉に紅茶を入れてもらったのが3時くらいだったか。廊下から伝わってくるざわめきを聞く限り、もう勤務交代時間かもしれなかっ
た。すると、2時間近く眠っていたことになる。
全く君は、私に夜警でもさせる気かね。報告書を待っているであろう上司の声が聞こえてくるようだ。あの、皮肉とも、余裕とも取れる落ち着いた声。
「マスタング大佐、変わったよな」
廊下の喧騒から聞こえてきた野太い声にぎくりとした。下士官だろうか。がやがやと数人で喋りながら歩いているらしい。
この辺は普段人気がないせいだろう。仲間内だけの気楽な噂話がにぎやかに聞こえてくる。
聞いている者がここに居ることに気付きもしないで。
「前は、来る者拒まずの女たらしだったのにな」
「エリートだからなぁ…もてないわけが無いっつーか」
「―――でも、確かに最近変わったよな。浮いた話も全然聞かないし」
「やっと一人に落ち着いたのかも」
「東部もやっと平和になったな」
「その平和もいつまでもつのやら」
「大佐が夢中になるのって、どんな女なんだろうな」
「想像つかないな、本命一本に絞るなんてさ」
「絶世の美女とか」
「いやいや。やっぱり男たるもの、コネだよ、コネ」
「どうかな。ああいう手を出すのが早い男はさ、攻略が難しい女に燃えるんだよ、きっと」
「落とすのに躍起になってるだけだろ」
「『あなたみたいなプレイボーイ、信じられないわ』とかさ、つれないことを言う女が落ちるのが良いのかもな」
「まだ寝てないんだろ。落ちるまではムキになるだろうよ」
「だろうなあ。陥落させたら…ポイだろうし」
「うわー、可哀想」
ざわめきが遠のいていった。資料室に差し込む光が、長い影を落とす。
「報告書、書かなきゃ」
くしゃくしゃになった報告書に目をやる。けれど、ちっとも頭に入ってこない。
霞がかった頭の中に、飛び込んできた声たちだけが、羽虫のように飛び回っていた。
―――あの時、大佐はなんて言っていたのだっけ。
夢の中の懐かしい光景。あれは2年も前のことだったか。夢を見るまで、大佐と話したことなんてすっかり忘れていた。
史上最年少で国家錬金術師の資格を取ったこと。それも、マスタング大佐が後見人となって。
それは少なからず、軍組織の中でセンセーションを起こしたようだった。もちろん、称える者もいたけれど、敵視する者の方が多かったのは言うまでもない。
鋼の二つ名が広まるにつれて、オレが好奇の目で見られることも増えた。苛立つオレに大佐は諭すように言った。大人になれと。まるで……父親みたいに。
纏わりつく前髪をかき上げてため息をついた。まさか、あの時、こうなるなんて誰が予想できただろう。
―――『君のことが好きだから』―――
まさか、大佐がそんなことを言うなんて、2年前は思ってもみなかった。
穏やかな微笑を浮かべていた、あの日の大佐の顔が頭から離れない。
―――『……変わらないよ。別に何も、変わらない』―――
本当に、そうだろうか。
目をきつく瞑って顔を覆う。
押し当てられたオートメイルがひどく冷たかった。
結局、報告書を作り終えたのは、夏の太陽も沈む頃だった。
うたた寝する前の物を書きなおして手を加えるのに、倍も時間がかかってしまった。
だが、報告書に手こずったお陰で、動揺は大分治まっていた。
大佐は?と中尉に声をかけると、執務室のドアを指差し、しかめっ面をした。
「サボってたら私の代わりに活を入れてやって頂戴」
「はは…、ホークアイ中尉が早く帰れるように頑張るよ」
中尉に集中して報告書を書ける場所を教えてもらったというのに、提出がこんなに遅れてしまった。それを不審に思われる前に、扉をノックしてすばやく部屋に
滑り込んだ。
部屋の奥にある机は、相も変わらず本と書類の山に埋め尽くされ、一瞬どこに大佐がいるのかわからないほどだった。
「大佐…居るか?」
もしや抜け出しているのでは?と声をかけると、書類の山からひょっこりと男の顔が覗いた。
「―――おお、鋼のか!驚かせるなよ、てっきり中尉かと思ったじゃないか」
そう笑って細められる黒い目。少し、髪が伸びたせいだろうか。落ちてくる前髪を鬱陶し気にかき上げている。
青い軍服の袖をまくり上げて、いつもはきっちり止めてる前をはだけているのを見ると、いままでずっとこの山のような書類と格闘していたらしい。
「待ってたよ、鋼の。さっきはすまなかったね。会議が長引いてしまって」
「いや。オレも報告書が出来て無かったから。それより、仕事、随分残ってるみたいだな。手伝ってやろうか?」
「殊勝なことを言うじゃないか。さては、報告書が出来上がらなかったのかな?」
「なっ、ちげーよ!ほらっ」
「おやおや。……君は私に暗号読解でもさせる気かね?またえらく難解な…」
笑いを含んだ声でからかいながらも、目はしっかり差し出された書面を追っている。
「読みづらくてすみませんね!時間がかかるなら明日にまわせよ。…仕事、まだ沢山あるんだろう?」
「いや、すぐ済む。緊急はほら、これだけだから」
そういってちらりと見やった書類の束は、傍目から見ると結構な量に見えたのだが。
「なあ、ほんとにいいよ後回しで。それ終わるまで本でも読んで待ってるから」
「気にするな。数分で済む。…それに、弟君が待っているんだろう?夜中になってしまうぞ」
「アルなら、リゼンブールに向かってるよ。オレだけ、リゼンブールに帰る前にこっちに寄っただけだから」
大佐が顔を上げる。意外そうな顔をしていることに、こっちが驚いてしまう。
「……そう、か。」
「そう。どうせ今日はこっちに泊まるつもりだったから。いーぜ。別に、急いでるわけじゃないし。オレに手伝える仕事があるなら、手伝うよ」
字は汚いけどな、と、照れ隠しにいって目をそらす。素直に好意を表わすことが苦手だ。特に、この男の前では。
人前ならまだ良かった。普段に輪をかけてぶっきらぼうに振舞って、生意気な言葉を吐いて。調子を合わせる大佐と、憎まれ口の応酬をして。そうやって、誤魔
化せた。自分の気持ちを。
二人きりになった途端、どう振舞っていいのか分からなくなる。上司と部下という枠組みからはみ出したこの結びつきを、持て余してしまう。自分の気持ちでさ
えもそうだ。
誘われるのをどこかで期待して、わざわざ不審がる弟を先にリゼンブールに行かせたりして。
手伝おうか、なんて、見え透いた事を。どうしてこんなことをしてるのか。まるで自分が自分じゃなくなったみたいだ。
「エドワード」
いつもの、二つ名ではなく。名前を呼ばれて、心臓が音を立てた。
「前に会った時、この本を探していたね?まだ手に入れてないようだったら、持っていくといい」
そう言って、引き出しを開けて取り出した古い本を見て、思わず声を上げてしまう。
「うそ?!どこでそれ見つけたんだよ!方々探したけど絶版って言われて諦めてたのに!」
「まあ、ちょっとつてを頼ってね。お節介かと思ったんだが、よかった」
黒い瞳が、嬉しそうに細められる。こんな時、言葉に詰まってしまう。憎まれ口ならいくらでも出てくるのに。
「なんて礼を言ったらいいか……大佐、本当に、その…ありがと」
「大した事じゃないよ」
男はそう言って微笑んだ。そんなこと無いだろ、と胸の中で呟いた。
自分が四方八方手を尽くして探しても見つからなかった本。それをどういうコネを使って探し出したのか。寝る時間も無いほど仕事で忙しいくせに。この本を探
しているなんて、大佐にいつ漏らしたのか、それすら自分は覚えていないのに。
「…大佐、何でそんなに優しいんだよ」
今日の本だけじゃない。いつもそうだ。与えられてばかりで、オレは大佐に何も返せない。
考えてみれば出会った時から、ずっとそうだった。欲しい言葉をいつもくれた。支えてほしい時にいつも傍にいてくれた。その時は気付かなくても、後から思え
ば、ずっと自分を見守っていてくれた。
どうして自分なんかにそこまでしてくれるんだろう。それが、大佐の一方的な好意だとしても。返さなくてもいいと言われても。……こんなの、フェアじゃな
い。
「別に。君が喜ぶ顔が見たかっただけだよ」
オレの動揺を楽しむように、平然と言って笑った。物慣れた素振り。経験豊富という言葉が頭をよぎる。
どうしてオレなんだよ、と思う。どうしてオレなんかを相手にするのか、本当に、誰か教えてくれ。
「―――エド、今日はもう予定はない?」
「…ない、けど?」
「そうか」
そう言って、軍服の内ポケットを探る。マホガニーの机に置かれたのは、古びた銀の鍵だった。いぶかしげに男を見つめる。大佐は、机の上で手を組むと、いい
事を思い付いたという面持ちででオレを見つめ返した。
「私の部屋で、待っていてくれないか?」
「え…?」
「久しぶりに会えたんだ。ゆっくり、話がしたい」
その涼しげな笑顔を見て。何故だろう、ふと、あの下士官たちの無責任な噂話が、耳の奥でよみがえった。
―――手を…出すのが……早い
「受け取ってもらえるかな?」
頬に血が上るのを感じて顔を伏せた。あんな噂。
他意のない筈の笑みが、急に、違ったものに見えてくる。
―――そんなこと、あるわけない。でも。
逡巡したのもつかの間に、大佐に左手を掴まれて、鍵を握らされていた。
「道、覚えてる?もし迷ったら、私宛に電話して―――2時間くらいで切り上げられると思うから」
「…あ、ああ」
やっとそれだけ返事をする。そのまま、顔をあげることもできずに、足早に執務室を後にした。
銀の鍵の冷たさが、熱い掌に、いつまでも異物として残り続けていた。
20080819
改訂 20090526
柴門ふみの小説からタイトルを借りました